2日前の午後、公園で自転車メンテナンスをしていた。
15年前にそこは、路地の間に古い家屋が立ち並び、
(もちろん誰かの恣意的な)区画整理により、
新たな市民のスペースに生まれ変わった。
また、近くに住んでいた同級生を偲ぶ場所でもある。
あの日、手に入れるのに並んだ水は貴重だった。
瓦礫を動かして開通した道路は大切だった。
 手を止めてベンチに座り、あたりを見渡す。
公園の向かいの住人は遠くを見るような顔付きで、
延々と自宅の外壁などを水圧で洗浄している。
町の人間が出し合い拡張した道路の上で、
騒音のために走るようなバイクをふかし続け、
携帯を操作し続けている。
 その夜、テレビは当時の状況や、
今朝の黙祷のVTRを映していた。
市民が壁を壊したり、支配者の像が倒れる映像のように、
どこか遠い国のニュースをみている気がした。