自転車と老人と救急車

右腕を発見者の奥さんに支えてもらい、
空に向かって上げ続けていた。
この体勢が楽だからだ。
それにしても、介助してくださるこのご夫婦に、
ありがたい気持ちでいっぱいだった。
ふもとからサイレンがかすかに聞こえてきた。


そのとき突然頭上から、
「結婚しているのか?」と、
落ち着いて問う男の声が聞こえた。
顔を上げるとTシャツにハーフパンツを着た、
日焼けした白髪頭の老人と目があった。
「いえ」
「それは良かった。迷惑がかかるからな。
 自転車はどうする?」
正論だが、この緊急事態に
結婚とか迷惑とかどうでもいいじゃないか?
と思いつつも、
「自転車はどこですか?」と本題を尋ねた。
「後ろにあるよ」
ゆっくり首を回すと5mほど後ろにMTBが倒れていた。
そんなに吹っ飛んだのか!?


びっくりしている間に老人は、
連れていた黒いセッターと一緒に、
自転車に近づいてハンドルを握り、動かし始めた。
「知っている、そこの茶店に預かってもらおうか?」
自転車をどうするか、他に選択肢がない私は、
この頑丈そうな老人に、
「お願いします。ありがとうございます」と告げた。
老人と黒い犬と愛車が坂道を登っていくのを目で追いながら、
そこまで来ているサイレンの音に耳を立てていた。
愛車にそれほどダメージはなさそうだ。
出血の勢いは弱まったものの、
歯を食いしばり続ける状態は変わらない。


老人と「医師」は去り、現場には
第1発見者のご夫婦と数人の方と私だけになった。
サイレンが止まり、赤いランプが点滅した救急車から、
救急隊員がこちらへ歩いてきた。